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第3話 名前を知っている理由

Author: 東雲明
last update publish date: 2026-06-17 13:47:26

「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」

 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。

 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。

 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。

 それでも、一つだけ引っかかっていた。

 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。

 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。

 瀬野龍夜。

 俺が名乗る前に。

 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気味が悪かった。

 ミユウは、ぱちぱちと目を瞬かせたあと、なぜか嬉しそうに胸の前で手を合わせた。

「えへへ。だって、古い予言書に載っていたんだよ」

「予言書?」

「うん! 異国の服を着て、龍の背に乗って夜の闇を切り払い、アストリアの闇を晴らす人が現れるって」

 ミユウはそこで、俺をまっすぐ見上げた。

 澄みきった瞳だった。

 疑うことを知らない子供みたいな目。だけど、その奥には子供の憧れだけじゃない、長い間ずっと誰かを待っていたような熱があった。

「だから、龍夜くんよ」

「いや、だからって……」

 俺はこめかみを押さえた。

 待て。

 龍の背に乗って、夜の闇を切り払う。

 それで龍夜。

 そんな雑な名付けクイズみたいな理由で、俺は異世界に引っ張られてきたのか。

「お前、それ本気で言ってるのか?」

「もちろんだよ!」

「予言書に『龍夜』ってそのまま書いてあったわけじゃないのか?」

「えっとね、文字はもっと難しかったけど、神官さまたちがたくさん調べてくれてね。龍と夜で、龍夜くんだって」

「翻訳の結果が俺の人生を巻き込んでるんだが」

 俺が思わず呟くと、ミユウは申し訳なさそうに眉を下げた。けれどすぐに、ぱっと花が開くように笑った。

「でも、来てくれた。ちゃんと来てくれたもん」

 その言い方に、胸の奥が少しだけ詰まった。

 責めるつもりだった。

 ふざけるなと言うつもりだった。

 勝手に呼び出して、勝手に勇者扱いして、しかも俺には戦闘力もスキルもない。さっき測られた数値は、きれいに何もなかった。

 なのにミユウは、俺を見ている。

 俺が何もできないことなんて、まだ知らないみたいに。

 いや、知っていたとしても関係ないみたいに。

「ミユウ殿」

 低く落ち着いた声が、広間の端から聞こえた。

 振り返ると、白い長衣をまとった神官が静かに歩み寄ってきた。年齢はよくわからない。しわの深い顔なのに、背筋だけはまっすぐで、こちらを見る目は妙に鋭かった。

 神官は俺の前で立ち止まり、深く頭を下げた。

「勇者殿。混乱なさるのも無理はありません」

「混乱で済んでるなら、俺はかなり冷静な方だと思いますけど」

「ええ。ですから、今のうちにお伝えしておかねばならないことがあります」

 神官の声が、少し重くなった。

 ミユウが俺の袖をきゅっと掴む。

 その指先が、わずかに震えていた。

「ミユウ殿の白翼は、ただ美しいだけの翼ではありません。白翼の継承者にのみ宿る、癒しの力を持っています」

「癒しの力……?」

「はい。傷を塞ぎ、毒を鎮め、弱った命をつなぎ止める力です。天界アストリアにおいて、白翼は希望そのもの。人々はミユウ殿を敬い、守ろうとします」

 そこで神官は、言葉を切った。

 守ろうとする。

 その響きは、きれいなものだけじゃなかった。

 守らなければならないほど、狙われているという意味でもある。

「しかし、その力を求めるのは人だけではありません」

 神官はゆっくりと続けた。

「悪魔族もまた、ミユウ殿の力を狙っています。彼らにとって白翼の癒しは、戦を長引かせるための道具にもなり得る。奪われれば、アストリアはさらに深い闇へ沈むでしょう」

 ミユウの指に、力がこもった。

 さっきまで予言書の話をしていた少女とは、違う顔になっていた。笑っているのに、笑いきれていない。怖がっていないふりをしているのが、はっきりわかった。

 俺は自分の胸の奥がざらつくのを感じた。

 この子は、特別視されている。

 ありがたがられて、崇められて、希望なんて言葉を背負わされている。

 でも、それは同時に、狙われる理由でもある。

 俺より一回りは小さい女の子が。

 白い翼を持っているというだけで。

「……じゃあ、俺は」

 喉が渇いていた。

 勇者として呼ばれた。

 アストリアを救う者だと持ち上げられた。

 だけど実際は、スキルなし。戦闘力なし。剣の振り方も知らない。

 そして今、隣にいるミユウは、この世界の誰もが守りたがる存在で、悪魔族に狙われている。

 俺は、守る側じゃない。

 今の俺は、守られる側だ。

 その事実が、胸の真ん中に冷たい石みたいに落ちた。

「俺を呼んだのは、ミユウを守らせるためじゃないのか」

 俺がそう言うと、神官はすぐには答えなかった。

 沈黙が、広間に広がる。

 青白い光が壁を揺らし、ミユウの白い羽に淡い影を落とした。

「予言は、勇者殿が闇を晴らすと示しています」

「今の俺に、そんな力はない」

「今は、です」

「その『今は』って言葉、便利すぎませんか」

 俺は笑おうとした。

 でも、うまく笑えなかった。

 胸の奥から込み上げたのは、情けなさだった。

 俺は異世界に来れば何か変わると思っていたのかもしれない。自分でも認めたくないけど、心のどこかで期待していた。

 勇者として召喚されたなら、剣を握れば強くなれる。魔法の一つくらい使える。誰かに必要とされる自分になれる。

 そんな都合のいい夢が、測定の光と一緒に砕け散った。

 現実は、もっと惨めだった。

 俺を信じている少女がいる。

 俺を勇者だと思っている神官がいる。

 この世界には、本当に敵がいる。

 なのに俺だけが、何も持っていない。

「龍夜くん」

 ミユウが袖を引いた。

 見下ろすと、ミユウは不安そうに俺を見ていた。大きな瞳の中に、俺の顔が小さく映っている。

「ごめんね。急に呼んじゃって。怖いよね。知らない場所で、知らない人ばっかりで、わけわかんないよね」

「……別に、怖いとは言ってない」

「でも、顔が怒ってる」

「怒ってるんじゃなくて、状況が意味わかんないだけだ」

「それ、怒ってる時の言い方だよ」

 ミユウは小さく笑った。

 その笑い方が、やけに胸に残った。

 天真爛漫で、疑うことを知らないように見えるのに、この子は俺の表情をちゃんと見ている。俺が強がっていることにも、たぶん気づいている。

「でもね、わたしは信じてるよ」

「何を」

「龍夜くんは、きっと勇者になるって」

「根拠は予言書か?」

「それもあるけど」

 ミユウは少しだけ背伸びをして、俺の顔を覗き込んだ。

「龍夜くん、さっき逃げなかったもん」

「逃げる場所がなかっただけだ」

「でも、わたしの手を振り払わなかった」

「……それは」

「だから、信じる理由にはなるよ」

 そんな理由で信じるな。

 喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。

 言えば、たぶんこの子は傷つく。

 傷つけたいわけじゃない。

 ただ、怖かった。

 俺を信じる目が、怖い。

 その信頼に応えられなかった時、真っ先に壊れるのは俺の自尊心じゃない。ミユウの笑顔だ。

 そう思った瞬間、腹の底に鈍い熱が灯った。

 情けない。

 こんな小さな子にここまで言わせて、俺はまだ自分が傷つくことばかり考えている。

「勇者殿」

 神官が静かに言った。

「今のあなたには、確かに力がありません。剣技も、魔力も、戦場の経験もない。だからこそ、当面はミユウ殿のそばを離れず、白翼の結界内で身を守っていただきます」

「……俺が、ミユウに守られるってことですか」

「率直に申せば、そうなります」

 はっきり言われると、きつかった。

 俺は息を吐いた。

 情けなさが、胸の奥でぐちゃぐちゃに渦を巻く。

 男だから守る側でいなきゃいけないとか、そんな単純な話じゃない。俺はこの世界のことを何も知らない。力もない。戦い方も知らない。

 だから守られるのは、理屈としては正しい。

 それでも、納得できるかどうかは別だった。

「龍夜くんは、わたしが守るよ」

 ミユウが、迷いなく言った。

 その言葉は優しかった。

 だけど、俺の胸には刺さった。

 守るよ。

 俺が言うべきだったはずの言葉を、ミユウが先に言った。

 白い羽を狙われる少女が、何も持たない俺を守ると言った。

 俺は拳を握った。

 爪が手のひらに食い込む。

 痛みだけが、今の俺に確かにあるものだった。

「……ずっとそのままでいるつもりはない」

 自分でも驚くくらい、低い声が出た。

 ミユウが目を丸くする。

 神官も、わずかに眉を上げた。

「今は守られるしかないとしても、ずっとは嫌だ。何もできないまま、誰かの後ろに隠れてるなんて、俺は嫌だ」

 言ってから、少しだけ息が楽になった。

 力があるわけじゃない。

 何か方法を思いついたわけでもない。

 それでも、口に出さなきゃ自分が自分に負けそうだった。

 ミユウは、嬉しそうに笑った。

「うん。龍夜くんなら、絶対そう言うと思ってた」

「だから、その信頼が重いんだよ」

「えへへ。勇者さまだもん」

「まだ勇者じゃない」

「じゃあ、これから勇者になる龍夜くん」

「言い方を変えただけだろ」

 ミユウがくすくす笑う。

 その笑い声に、張り詰めていた広間の空気が少しだけほどけた気がした。

 けれど、それは長く続かなかった。

 扉の向こうから、硬い足音が聞こえた。

 こつ、こつ、と白い床を踏む音。

 神官の表情が一瞬だけ曇る。ミユウの肩も、ぴくりと揺れた。

 大きな扉が開く。

 入ってきたのは、背の高い男だった。

 長い白銀の髪が背中まで流れ、そこから広がる大きな翼は、ミユウのものよりも鋭く力強く見えた。整った顔立ちをしているのに、目つきが冷たい。

 俺を見るなり、その男は露骨に鼻で笑った。

「こいつが予言の勇者?」

 声には、隠す気のない軽蔑が混じっていた。

 ミユウがぱっと俺の前に出ようとする。

「ルゥ!」

 ルゥ。

 ミユウの声に、親しさと焦りが混じっていた。

 幼なじみなのだと、説明されなくてもわかった。距離が近い。ミユウが怒る前に名前を呼ぶ、その速さがそう告げていた。

 ルゥはミユウに視線を向けると、少しだけ表情を和らげた。けれど俺に戻した途端、その目は氷みたいに冷たくなる。

「ミユウ、下がってろ。そいつに近づくな」

「龍夜くんは、予言の勇者さまだよ」

「勇者? その雑魚が?」

 雑魚。

 その二文字が、まっすぐ俺の胸に刺さった。

 否定できないのが、余計に腹立たしかった。

 ルゥはゆっくり歩いてきて、俺の足元から頭の先まで値踏みするように眺めた。

「魔力の気配もない。翼もない。剣を握った痕もない。戦う者の目でもない。こんな奴がアストリアの闇を晴らす? 笑わせるな」

「ルゥ、やめて!」

「やめない。ミユウ、お前は優しすぎる。予言に縋りすぎて、こんな偽物まで信じようとしてる」

 ルゥの声には怒りがあった。

 ただ俺を馬鹿にしているだけじゃない。

 ミユウを取られたくないのか。

 ミユウを危険に近づけたくないのか。

 たぶん、その両方だ。

 けれど、だからといって俺が黙って殴られっぱなしになる理由にはならない。

「おい」

 俺はルゥを睨んだ。

「俺が弱いのは認める。ここに来たばっかりで、何もできないのも事実だ。でも偽物呼ばわりされる筋合いはない」

 ルゥは楽しそうに口の端を上げた。

「事実を言われて怒るのか。情けない勇者だな」

「勇者じゃないって、さっきから言ってるだろ」

「なら何だ。ミユウに守られるだけの荷物か?」

 広間の空気が凍った。

 ミユウの顔から、笑みが消える。

 神官が何かを言おうとした。

 けれど、それより早く、ルゥがさらに踏み込んできた。

「白翼の継承者に守られて、予言の名だけをぶら下げて、何もできずに震えているだけ。そんな雑魚の偽物を、俺は勇者とは認めない」

 頭の奥で、何かが切れた。

 怖さも、情けなさも、悔しさも、全部まとめて腹の底で燃え上がる。

 俺は一歩前に出た。

 ミユウが俺の袖を掴もうとした手が、空を切る。

 ルゥの冷たい目を、真正面から睨み返した。

「なんだと?!」

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    「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!

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    「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で

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