Mag-log in「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」
俺の声は、自分で思ったより低く響いた。
白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。
ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。
それでも、一つだけ引っかかっていた。
目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。
俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。
瀬野龍夜。
俺が名乗る前に。
その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気味が悪かった。
ミユウは、ぱちぱちと目を瞬かせたあと、なぜか嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
「えへへ。だって、古い予言書に載っていたんだよ」
「予言書?」
「うん! 異国の服を着て、龍の背に乗って夜の闇を切り払い、アストリアの闇を晴らす人が現れるって」
ミユウはそこで、俺をまっすぐ見上げた。
澄みきった瞳だった。
疑うことを知らない子供みたいな目。だけど、その奥には子供の憧れだけじゃない、長い間ずっと誰かを待っていたような熱があった。
「だから、龍夜くんよ」
「いや、だからって……」
俺はこめかみを押さえた。
待て。
龍の背に乗って、夜の闇を切り払う。
それで龍夜。
そんな雑な名付けクイズみたいな理由で、俺は異世界に引っ張られてきたのか。
「お前、それ本気で言ってるのか?」
「もちろんだよ!」
「予言書に『龍夜』ってそのまま書いてあったわけじゃないのか?」
「えっとね、文字はもっと難しかったけど、神官さまたちがたくさん調べてくれてね。龍と夜で、龍夜くんだって」
「翻訳の結果が俺の人生を巻き込んでるんだが」
俺が思わず呟くと、ミユウは申し訳なさそうに眉を下げた。けれどすぐに、ぱっと花が開くように笑った。
「でも、来てくれた。ちゃんと来てくれたもん」
その言い方に、胸の奥が少しだけ詰まった。
責めるつもりだった。
ふざけるなと言うつもりだった。
勝手に呼び出して、勝手に勇者扱いして、しかも俺には戦闘力もスキルもない。さっき測られた数値は、きれいに何もなかった。
なのにミユウは、俺を見ている。
俺が何もできないことなんて、まだ知らないみたいに。
いや、知っていたとしても関係ないみたいに。
「ミユウ殿」
低く落ち着いた声が、広間の端から聞こえた。
振り返ると、白い長衣をまとった神官が静かに歩み寄ってきた。年齢はよくわからない。しわの深い顔なのに、背筋だけはまっすぐで、こちらを見る目は妙に鋭かった。
神官は俺の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「勇者殿。混乱なさるのも無理はありません」
「混乱で済んでるなら、俺はかなり冷静な方だと思いますけど」
「ええ。ですから、今のうちにお伝えしておかねばならないことがあります」
神官の声が、少し重くなった。
ミユウが俺の袖をきゅっと掴む。
その指先が、わずかに震えていた。
「ミユウ殿の白翼は、ただ美しいだけの翼ではありません。白翼の継承者にのみ宿る、癒しの力を持っています」
「癒しの力……?」
「はい。傷を塞ぎ、毒を鎮め、弱った命をつなぎ止める力です。天界アストリアにおいて、白翼は希望そのもの。人々はミユウ殿を敬い、守ろうとします」
そこで神官は、言葉を切った。
守ろうとする。
その響きは、きれいなものだけじゃなかった。
守らなければならないほど、狙われているという意味でもある。
「しかし、その力を求めるのは人だけではありません」
神官はゆっくりと続けた。
「悪魔族もまた、ミユウ殿の力を狙っています。彼らにとって白翼の癒しは、戦を長引かせるための道具にもなり得る。奪われれば、アストリアはさらに深い闇へ沈むでしょう」
ミユウの指に、力がこもった。
さっきまで予言書の話をしていた少女とは、違う顔になっていた。笑っているのに、笑いきれていない。怖がっていないふりをしているのが、はっきりわかった。
俺は自分の胸の奥がざらつくのを感じた。
この子は、特別視されている。
ありがたがられて、崇められて、希望なんて言葉を背負わされている。
でも、それは同時に、狙われる理由でもある。
俺より一回りは小さい女の子が。
白い翼を持っているというだけで。
「……じゃあ、俺は」
喉が渇いていた。
勇者として呼ばれた。
アストリアを救う者だと持ち上げられた。
だけど実際は、スキルなし。戦闘力なし。剣の振り方も知らない。
そして今、隣にいるミユウは、この世界の誰もが守りたがる存在で、悪魔族に狙われている。
俺は、守る側じゃない。
今の俺は、守られる側だ。
その事実が、胸の真ん中に冷たい石みたいに落ちた。
「俺を呼んだのは、ミユウを守らせるためじゃないのか」
俺がそう言うと、神官はすぐには答えなかった。
沈黙が、広間に広がる。
青白い光が壁を揺らし、ミユウの白い羽に淡い影を落とした。
「予言は、勇者殿が闇を晴らすと示しています」
「今の俺に、そんな力はない」
「今は、です」
「その『今は』って言葉、便利すぎませんか」
俺は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
胸の奥から込み上げたのは、情けなさだった。
俺は異世界に来れば何か変わると思っていたのかもしれない。自分でも認めたくないけど、心のどこかで期待していた。
勇者として召喚されたなら、剣を握れば強くなれる。魔法の一つくらい使える。誰かに必要とされる自分になれる。
そんな都合のいい夢が、測定の光と一緒に砕け散った。
現実は、もっと惨めだった。
俺を信じている少女がいる。
俺を勇者だと思っている神官がいる。
この世界には、本当に敵がいる。
なのに俺だけが、何も持っていない。
「龍夜くん」
ミユウが袖を引いた。
見下ろすと、ミユウは不安そうに俺を見ていた。大きな瞳の中に、俺の顔が小さく映っている。
「ごめんね。急に呼んじゃって。怖いよね。知らない場所で、知らない人ばっかりで、わけわかんないよね」
「……別に、怖いとは言ってない」
「でも、顔が怒ってる」
「怒ってるんじゃなくて、状況が意味わかんないだけだ」
「それ、怒ってる時の言い方だよ」
ミユウは小さく笑った。
その笑い方が、やけに胸に残った。
天真爛漫で、疑うことを知らないように見えるのに、この子は俺の表情をちゃんと見ている。俺が強がっていることにも、たぶん気づいている。
「でもね、わたしは信じてるよ」
「何を」
「龍夜くんは、きっと勇者になるって」
「根拠は予言書か?」
「それもあるけど」
ミユウは少しだけ背伸びをして、俺の顔を覗き込んだ。
「龍夜くん、さっき逃げなかったもん」
「逃げる場所がなかっただけだ」
「でも、わたしの手を振り払わなかった」
「……それは」
「だから、信じる理由にはなるよ」
そんな理由で信じるな。
喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
言えば、たぶんこの子は傷つく。
傷つけたいわけじゃない。
ただ、怖かった。
俺を信じる目が、怖い。
その信頼に応えられなかった時、真っ先に壊れるのは俺の自尊心じゃない。ミユウの笑顔だ。
そう思った瞬間、腹の底に鈍い熱が灯った。
情けない。
こんな小さな子にここまで言わせて、俺はまだ自分が傷つくことばかり考えている。
「勇者殿」
神官が静かに言った。
「今のあなたには、確かに力がありません。剣技も、魔力も、戦場の経験もない。だからこそ、当面はミユウ殿のそばを離れず、白翼の結界内で身を守っていただきます」
「……俺が、ミユウに守られるってことですか」
「率直に申せば、そうなります」
はっきり言われると、きつかった。
俺は息を吐いた。
情けなさが、胸の奥でぐちゃぐちゃに渦を巻く。
男だから守る側でいなきゃいけないとか、そんな単純な話じゃない。俺はこの世界のことを何も知らない。力もない。戦い方も知らない。
だから守られるのは、理屈としては正しい。
それでも、納得できるかどうかは別だった。
「龍夜くんは、わたしが守るよ」
ミユウが、迷いなく言った。
その言葉は優しかった。
だけど、俺の胸には刺さった。
守るよ。
俺が言うべきだったはずの言葉を、ミユウが先に言った。
白い羽を狙われる少女が、何も持たない俺を守ると言った。
俺は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛みだけが、今の俺に確かにあるものだった。
「……ずっとそのままでいるつもりはない」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
ミユウが目を丸くする。
神官も、わずかに眉を上げた。
「今は守られるしかないとしても、ずっとは嫌だ。何もできないまま、誰かの後ろに隠れてるなんて、俺は嫌だ」
言ってから、少しだけ息が楽になった。
力があるわけじゃない。
何か方法を思いついたわけでもない。
それでも、口に出さなきゃ自分が自分に負けそうだった。
ミユウは、嬉しそうに笑った。
「うん。龍夜くんなら、絶対そう言うと思ってた」
「だから、その信頼が重いんだよ」
「えへへ。勇者さまだもん」
「まだ勇者じゃない」
「じゃあ、これから勇者になる龍夜くん」
「言い方を変えただけだろ」
ミユウがくすくす笑う。
その笑い声に、張り詰めていた広間の空気が少しだけほどけた気がした。
けれど、それは長く続かなかった。
扉の向こうから、硬い足音が聞こえた。
こつ、こつ、と白い床を踏む音。
神官の表情が一瞬だけ曇る。ミユウの肩も、ぴくりと揺れた。
大きな扉が開く。
入ってきたのは、背の高い男だった。
長い白銀の髪が背中まで流れ、そこから広がる大きな翼は、ミユウのものよりも鋭く力強く見えた。整った顔立ちをしているのに、目つきが冷たい。
俺を見るなり、その男は露骨に鼻で笑った。
「こいつが予言の勇者?」
声には、隠す気のない軽蔑が混じっていた。
ミユウがぱっと俺の前に出ようとする。
「ルゥ!」
ルゥ。
ミユウの声に、親しさと焦りが混じっていた。
幼なじみなのだと、説明されなくてもわかった。距離が近い。ミユウが怒る前に名前を呼ぶ、その速さがそう告げていた。
ルゥはミユウに視線を向けると、少しだけ表情を和らげた。けれど俺に戻した途端、その目は氷みたいに冷たくなる。
「ミユウ、下がってろ。そいつに近づくな」
「龍夜くんは、予言の勇者さまだよ」
「勇者? その雑魚が?」
雑魚。
その二文字が、まっすぐ俺の胸に刺さった。
否定できないのが、余計に腹立たしかった。
ルゥはゆっくり歩いてきて、俺の足元から頭の先まで値踏みするように眺めた。
「魔力の気配もない。翼もない。剣を握った痕もない。戦う者の目でもない。こんな奴がアストリアの闇を晴らす? 笑わせるな」
「ルゥ、やめて!」
「やめない。ミユウ、お前は優しすぎる。予言に縋りすぎて、こんな偽物まで信じようとしてる」
ルゥの声には怒りがあった。
ただ俺を馬鹿にしているだけじゃない。
ミユウを取られたくないのか。
ミユウを危険に近づけたくないのか。
たぶん、その両方だ。
けれど、だからといって俺が黙って殴られっぱなしになる理由にはならない。
「おい」
俺はルゥを睨んだ。
「俺が弱いのは認める。ここに来たばっかりで、何もできないのも事実だ。でも偽物呼ばわりされる筋合いはない」
ルゥは楽しそうに口の端を上げた。
「事実を言われて怒るのか。情けない勇者だな」
「勇者じゃないって、さっきから言ってるだろ」
「なら何だ。ミユウに守られるだけの荷物か?」
広間の空気が凍った。
ミユウの顔から、笑みが消える。
神官が何かを言おうとした。
けれど、それより早く、ルゥがさらに踏み込んできた。
「白翼の継承者に守られて、予言の名だけをぶら下げて、何もできずに震えているだけ。そんな雑魚の偽物を、俺は勇者とは認めない」
頭の奥で、何かが切れた。
怖さも、情けなさも、悔しさも、全部まとめて腹の底で燃え上がる。
俺は一歩前に出た。
ミユウが俺の袖を掴もうとした手が、空を切る。
ルゥの冷たい目を、真正面から睨み返した。
「なんだと?!」
「うそ…だろ。なんで…お前…そんな」 声が震えた。 広大な玉座の間へ放たれたはずの言葉は、黒い柱と高い天井に何度も反響し、最後には冷たい石の壁へ吸い込まれていった。 返事はない。 正面に立つミユウは、俺が知る白い翼の少女ではなかった。 銀色の髪は変わらない。細い頬も、透き通るような瞳も、何度も俺へ笑いかけてくれた顔も同じだ。 けれど、その背中から広がっている翼だけが、夜よりも深い黒に染まっていた。 一枚一枚の羽根から闇色の魔力がこぼれ落ち、床を這う霧となって彼女の足元へ絡みついている。青白い燭台の炎が黒い翼に遮られ、ミユウの顔には凍りついたような影が差していた。 違う。 姿だけじゃない。 俺を見る目に、あのあたたかさがない。「ミユウ……」 名前を呼び、一歩踏み出した瞬間、胸の奥で冷たい輪が縮んだ。「ぐっ……!」 心臓を内側から握り潰されるような衝撃に、身体が前へ折れる。 俺は胸を押さえた。螺旋階段を駆け上がっていたときから続いている異変が、玉座の間へ入ってから急激に強まっている。 乱れた呼吸が、やけに大きく響いた。 床へ膝が落ちそうになる。 それでも、つま先に力を込めた。 ここまで来たのは、倒れるためじゃない。 あいつを連れて帰るためだ。 俺が顔を上げると、ミユウは黒い翼の向こうから俺を見下ろしていた。澄んだ瞳には、心配も迷いも浮かんでいない。 やがて、薄い唇が冷たく動いた。「無様な姿ね」 聞き慣れた声だった。 だからこそ、その言葉は刃より深く胸へ突き刺さった。 ミユウは具合が悪そうな誰かを見つければ、考えるより先に駆け寄るようなやつだった。苦しむ相手を見下ろして笑うなんて、俺の知るミユウなら絶対にしない。「そんな顔で、そんなこと言うなよ……」 絞り出した声に、ミユウは答えなかった。 黒い翼をゆっくりと畳み、俺へ背を向ける。 そして玉座へ向かって歩き出した。 一歩ごとに鳴る靴音が、冷たい空間を重く打つ。 俺から離れ、あいつへ近づいていく。 玉座の間の最奥には、黒銀の装飾に囲まれた巨大な玉座がそびえていた。その上に腰かけるラフィセルは、頬杖をついたまま俺たちを見下ろしている。 怒りも警戒もない。 俺がここへ来ることも、ミユウが俺の前に立つことも、最初から知っていたような顔だった。 玉座へ続く床には
靴底が石段を打つたび、乾いた足音が螺旋階段の奥へ吸い込まれていった。 ひび割れた石壁は肩が触れそうなほど近く、壁に掛けられた古いランタンだけが、狭い足元を頼りなく照らしている。炎は風もないのに揺れ、俺の金色の髪と、ねじれながら伸びていく影を何度も闇へ沈めた。 右へ、さらに右へ。 いくら登っても同じ景色が続き、中央の吹き抜けは底のない穴のように口を開けている。錆びた手すりの向こうを覗いても、下層の明かりさえ見えない。踏み外した石片が暗闇へ落ちていったが、いつまで待っても音は返ってこなかった。 胸の奥で、鼓動がひとつ大きく跳ねた。 続くはずの次の鼓動が来ない。 心臓だけが取り残されたような空白のあと、遅れを取り戻そうとする激しい脈動が胸を内側から叩いた。冷たい輪で締めつけられる感覚が強まり、吸い込んだ息が喉の途中で止まる。「っ……まだだ」 俺は胸元を押さえていた手を離した。 痛みがあることはわかっている。体が普段どおりではないことも、無視できるほど鈍くはない。 それでも、止まる理由にはならなかった。 この階段の先にミユウがいる。それなら今の俺に必要なのは、痛みの正体を考えることではなく、一段でも多く登ることだ。 視界を遮る曲がり角へ踏み込んだ瞬間、頭上の闇が膨らんだ。 俺は反射的に右手を伸ばした。「アストラルフレイム!」 金色の光が指先へ集まり、剣の形を結ぶ。 直後、上段から振り下ろされた巨大な爪が刃へ激突した。 耳を刺す金属音とともに、狭い階段の空気が爆ぜる。両腕へ押し潰すような重圧がかかり、足元の石段から何本もの亀裂が伸びた。俺は奥歯を噛みしめ、沈みそうになった腰を支える。 敵は上にいる。 ただでさえ狭い場所で、体重まで乗せた一撃を受け続ければ押し切られる。 俺は刃をわずかに傾け、爪の力を外壁側へ逃がした。黒い爪がアストラルフレイムの表面を滑り、石壁へ深く突き刺さる。 石の破片が頬をかすめた。 敵の腕の下を潜り、二段上へ踏み込む。懐へ入れば巨体の力は使えない。そう判断して剣を振り上げようとしたが、切っ先が低い天井へ触れた。 ほんの一瞬、剣筋が止まる。 その隙を、敵は見逃さなかった。 横から黒い衝撃が叩き込まれた。「ぐっ!」 体が浮き、外壁へ弾き飛ばされる。 俺は激突する直前に左足を壁へ突き立てた。靴底が石を削
「ミユウ!」 閉じかけた魔界の門へ、俺は手を伸ばした。 赤黒い光の裂け目が、刃のように細くなっていく。その向こうで、ラフィセルがミユウを連れ去ろうとしていた。白い翼を押さえ込まれても、ミユウは振り返り、まっすぐに俺を見ていた。 怯えきった顔ではなかった。 俺が来ると信じている目だった。「龍夜くん!」 声が届いた直後、ラフィセルの姿が闇に溶けた。 門が閉じる。 ミユウの白い指先が見えなくなり、赤黒い光は一本の線となって消えた。俺の手は、何もない空間をつかんだ。「ミユウ!」 返事はない。 鏡の池を渡ってきた冷たい風が、金色の髪を揺らした。さっきまで門があった場所には、黒く焼けたような円形の跡だけが残っている。「ミユウ! 聞こえるか!」 俺は拳で門の跡を叩いた。 固い壁を殴ったような衝撃が腕を走る。それでも構わず、もう一度拳を振り上げた。「ミユウ!」「いつまでそうやって叫んでいるつもりですか」 背後から飛んできたルゥの声が、俺の拳を止めた。 振り返ると、ルゥは腕を組んで立っていた。いつもと変わらない、偉そうな顔だ。けれど、その視線は俺ではなく、閉じた門へ向けられている。「叫べば門が開くのですか。あなたの声が大きいことくらい、もう十分に分かりました」「分かってる。だけど……!」 言いかけた言葉をのみ込む。 このまま名前を呼び続けても、何も変わらない。 ミユウは最後まで俺を見ていた。助けを諦めた顔ではなかった。なら、俺がここで立ち止まる理由はない。 俺は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。 冷たい空気が胸へ入る。速くなっていた鼓動を数え、吐く息と一緒に焦りを押し出した。 今やるべきことは、嘆くことじゃない。 閉じた門を開けることだ。「ルゥ。この門は、もう開かないのか」「通常の方法では無理でしょう。向こう側から閉じられた門です。鍵穴すら残っていません」「通常の方法なら、か」 ルゥがわずかに眉を動かした。 俺は再び門の跡へ向き直り、今度は拳ではなく、開いた手のひらを押し当てた。 氷に触れたような冷たさが皮膚から染み込んでくる。 だが、その奥に別のものがあった。 小さな脈。 閉じた門の向こうで何かが鼓動しているように、かすかな振動が手のひらへ返ってくる。 意識を集中すると、俺の身体の内側にも、それに応える熱が生
ラステルへ続く街道が深い森へ差しかかる少し前、俺たちは道端で休んでいた旅商人から、不思議な池の話を聞いた。「ここから東へ半刻ほど歩いたところに、鏡みたいな池があるんだ」 旅商人は荷馬車の車輪へ新しい留め具を打ち込みながら、まるで近所の井戸について話すような気軽さで言った。「鏡みたい?」 ミユウがすぐに食いつく。「ああ。風が吹いても波一つ立たない。空も雲も、のぞき込んだ人間の顔も、何もかもそのまま映すそうだ。けど、ただ姿を映すだけじゃない。本当の姿、本当の心まで見せるんだとさ」「本当の心……」 ミユウはその言葉を確かめるように、胸の前で両手を重ねた。 穏やかな午後の日差しが、彼女の白い翼を淡く照らしている。旅商人の話を聞くまでは、道端に咲いている小さな花を楽しそうに眺めていたのに、今は池のことしか頭にないらしい。 その横顔を見た時点で、俺には次の言葉が予想できた。「行ってみたい!」「そう言うと思った」「だって、本当の心を映すのよ? すごくない?」「すごいかもしれないけど、今からラステルとは違う方向へ行くんだぞ」「半刻だけでしょう? それに、池の中で困っている人がいるかもしれないわ」「今の話のどこに、困っている人が出てきたんだよ」「詳しいことを話したがらない人がいるって言っていたでしょう? 怖い思いをしたのかもしれないわ」 ミユウは真剣な顔で旅商人を見る。「その池へ行った人は、みんな無事に戻ったんですか?」「少なくとも、俺が会った連中は生きて戻ってきたよ。ただ、池の中で何を見たのか聞いても、黙り込むばかりだったな。中には泣き出す者もいた」 俺は思わず森の方角へ目を向けた。 街道から外れた先には、日の光が届かないほど密集した木々が並んでいる。穏やかな風が吹いているのに、森の奥だけはひどく静かだった。「なるほど。本当の心を映すというより、心の奥へ直接作用する魔法かもしれませんね」 ルゥが腕を組み、考え込むように目を細めた。「珍しく慎重だな」「珍しくとは何です。私はいつでも物事を深く考えています」「じゃあ、行くのは反対か?」「誰がそのようなことを言いました?」 ルゥは少し顎を上げた。「人間の噂など、大半は尾ひれのついた作り話です。しかし、本当に精神へ作用する池ならば、魔法的な価値はあります。無知なあなたたちだけを行か
宿屋の一室には、戦いの気配を忘れさせるような静けさが満ちていた。 小さな窓から差し込む月明かりが、木の床へ細長く伸びている。壁際の燭台では、短くなった蝋燭の炎が夜風にかすかに揺れ、そのたびに壁へ映る二人分の影も、寄り添ったり離れたりを繰り返していた。 遠くから聞こえてくる川のせせらぎ。屋根の上を撫でていく風の音。時折、古い建物が思い出したように軋む。 それ以外には、何も聞こえない。 ついさっきまで剣を握り、悪魔と命を懸けて戦っていたことさえ、遠い出来事のように感じられた。 俺は部屋の中央に立ち、自分の両手を見下ろした。 手のひらには、剣を強く握り続けた跡が残っている。体のあちこちには鈍い痛みがあったが、立っていられないほどじゃない。傷の手当ても受けている。 それよりも強く感じているものがあった。 俺の内側を、静かに流れている力。 目に見えなくても、今ははっきりと分かる。 それは誰かから借りたものでも、俺の手に余る得体の知れないものでもなかった。確かに俺の中で生まれ、呼吸に合わせて全身を巡っている魔力だった。 以前の力は、怒りに呼応して一気に噴き出した。 髪は荒々しく逆立ち、燃え盛るような光が視界を埋め尽くした。強大である一方、少しでも気を抜けば自分まで飲み込まれそうな激しさがあった。 だが、今は違う。 自然に流れる金色の髪を指先でかき上げながら意識を集中させると、胸の奥で魔力がわずかに動いた。静かな湖面へ波紋が広がるように、俺の意思を待っている。 俺が望めば、この力は応えてくれる。 怒りに支配されなくてもいい。誰かを守りたいという思いを、俺自身が力へ変えられる。 戦いの中でつかんだその感覚は、まだ体に残っていた。 偶然じゃない。 俺はアストラルブレイヴの力を、自分の意思で制御した。 その事実を、もう疑うつもりはなかった。「龍夜くん」 呼びかけられ、俺は顔を上げた。 ミユウが、寝台のそばに立っていた。 薄い寝間着へ着替えた彼女の銀白色の髪が、月の光を受けて淡く輝いている。いつもの明るい笑顔を浮かべようとしているのに、その青い瞳は少し潤んでいた。 ミユウは俺の姿を確かめるように、金色の髪から頬、肩、腕へ視線を動かした。 俺が本当にここにいるのか。 今にも消えてしまわないか。 そんな不安が、言葉にされなくても伝わっ
悪魔がミユウへ触れようとした瞬間、俺はその手首をつかんだ。「ミユウに触るな」 静かな声が、自分の喉から落ちた。 胸の内には、焼けつくような怒りがある。それでも、視界は澄み切っていた。以前のように感情が力を引きずり出しているのではない。 守ると決めた俺自身が、力を動かしている。 悪魔の黒い皮膚をつかんだ指先から、淡い金色の光がにじみ出した。身体の奥から流れてきた熱が腕を通り、手のひらへ集まっていく。「熱い! なんだ、これは!」 悪魔は目を見開き、翼を激しく羽ばたかせた。俺の手を振りほどくと、赤く光る手首を押さえながら空へ逃げる。 夕暮れの森に長い影が落ちた。 冷たい風が木々の梢を揺らし、草原に咲く白い花が一斉に身を伏せる。その向こうで、悪魔の黒い翼が茜色の空を切り裂いた。 逃がすつもりはない。 俺はゆっくり息を吸い、胸の奥に意識を向けた。 力を無理に引きずり出すのではなく、自分の呼吸へ重ねていく。心臓が打つたび、身体の内側にある熱が目を覚まし、肩から腕へ、腰から足へと流れていった。 金色の髪が激しく逆立つ。 足元から立ち上った淡い金色の光が、俺の全身を静かに包み込んだ。 炎のように荒れ狂うことはない。 光は俺の輪郭に沿って穏やかに揺れ、呼吸に合わせて明るさを変えている。熱も、重さも、すべてが俺の意思に従っていた。「アストラルブレイヴ……!」 背後から、ミユウの明るい声が届く。 その声に押されるように、俺は地面を蹴った。 土が弾けた。 次の瞬間、身体は木々の高さを越え、夕暮れの空へ飛び出していた。 頬へぶつかった風が、金色の髪を激しく揺らす。 速い。 そう考えた時には、地上の草原がはるか下へ遠ざかっている。 三日前までの俺なら、飛び上がった勢いに身体を任せるしかなかった。空中で姿勢を変えるだけでも全身へ無駄な力が入り、着地する場所を選ぶ余裕などなかった。 今は違う。 右足へ魔力を流すと、何もない空に見えない足場が生まれた。そこを踏み込めば、身体は俺が望んだ方向へ鋭く曲がる。 腕へ力を移せば上半身が軽くなり、背中へ巡らせれば翼がなくても風をつかめる。 まるで、空そのものが俺の道になったようだった。 胸の奥に高揚が広がる。 だが、その感覚に酔っている暇はない。 前方を飛ぶ悪魔が右へ身体を傾ける。そのわずかな動
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ