LOGIN「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」
俺の声は、自分で思ったより低く響いた。
白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。
ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。
それでも、一つだけ引っかかっていた。
目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。
俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。
瀬野龍夜。
俺が名乗る前に。
その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気味が悪かった。
ミユウは、ぱちぱちと目を瞬かせたあと、なぜか嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
「えへへ。だって、古い予言書に載っていたんだよ」
「予言書?」
「うん! 異国の服を着て、龍の背に乗って夜の闇を切り払い、アストリアの闇を晴らす人が現れるって」
ミユウはそこで、俺をまっすぐ見上げた。
澄みきった瞳だった。
疑うことを知らない子供みたいな目。だけど、その奥には子供の憧れだけじゃない、長い間ずっと誰かを待っていたような熱があった。
「だから、龍夜くんよ」
「いや、だからって……」
俺はこめかみを押さえた。
待て。
龍の背に乗って、夜の闇を切り払う。
それで龍夜。
そんな雑な名付けクイズみたいな理由で、俺は異世界に引っ張られてきたのか。
「お前、それ本気で言ってるのか?」
「もちろんだよ!」
「予言書に『龍夜』ってそのまま書いてあったわけじゃないのか?」
「えっとね、文字はもっと難しかったけど、神官さまたちがたくさん調べてくれてね。龍と夜で、龍夜くんだって」
「翻訳の結果が俺の人生を巻き込んでるんだが」
俺が思わず呟くと、ミユウは申し訳なさそうに眉を下げた。けれどすぐに、ぱっと花が開くように笑った。
「でも、来てくれた。ちゃんと来てくれたもん」
その言い方に、胸の奥が少しだけ詰まった。
責めるつもりだった。
ふざけるなと言うつもりだった。
勝手に呼び出して、勝手に勇者扱いして、しかも俺には戦闘力もスキルもない。さっき測られた数値は、きれいに何もなかった。
なのにミユウは、俺を見ている。
俺が何もできないことなんて、まだ知らないみたいに。
いや、知っていたとしても関係ないみたいに。
「ミユウ殿」
低く落ち着いた声が、広間の端から聞こえた。
振り返ると、白い長衣をまとった神官が静かに歩み寄ってきた。年齢はよくわからない。しわの深い顔なのに、背筋だけはまっすぐで、こちらを見る目は妙に鋭かった。
神官は俺の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「勇者殿。混乱なさるのも無理はありません」
「混乱で済んでるなら、俺はかなり冷静な方だと思いますけど」
「ええ。ですから、今のうちにお伝えしておかねばならないことがあります」
神官の声が、少し重くなった。
ミユウが俺の袖をきゅっと掴む。
その指先が、わずかに震えていた。
「ミユウ殿の白翼は、ただ美しいだけの翼ではありません。白翼の継承者にのみ宿る、癒しの力を持っています」
「癒しの力……?」
「はい。傷を塞ぎ、毒を鎮め、弱った命をつなぎ止める力です。天界アストリアにおいて、白翼は希望そのもの。人々はミユウ殿を敬い、守ろうとします」
そこで神官は、言葉を切った。
守ろうとする。
その響きは、きれいなものだけじゃなかった。
守らなければならないほど、狙われているという意味でもある。
「しかし、その力を求めるのは人だけではありません」
神官はゆっくりと続けた。
「悪魔族もまた、ミユウ殿の力を狙っています。彼らにとって白翼の癒しは、戦を長引かせるための道具にもなり得る。奪われれば、アストリアはさらに深い闇へ沈むでしょう」
ミユウの指に、力がこもった。
さっきまで予言書の話をしていた少女とは、違う顔になっていた。笑っているのに、笑いきれていない。怖がっていないふりをしているのが、はっきりわかった。
俺は自分の胸の奥がざらつくのを感じた。
この子は、特別視されている。
ありがたがられて、崇められて、希望なんて言葉を背負わされている。
でも、それは同時に、狙われる理由でもある。
俺より一回りは小さい女の子が。
白い翼を持っているというだけで。
「……じゃあ、俺は」
喉が渇いていた。
勇者として呼ばれた。
アストリアを救う者だと持ち上げられた。
だけど実際は、スキルなし。戦闘力なし。剣の振り方も知らない。
そして今、隣にいるミユウは、この世界の誰もが守りたがる存在で、悪魔族に狙われている。
俺は、守る側じゃない。
今の俺は、守られる側だ。
その事実が、胸の真ん中に冷たい石みたいに落ちた。
「俺を呼んだのは、ミユウを守らせるためじゃないのか」
俺がそう言うと、神官はすぐには答えなかった。
沈黙が、広間に広がる。
青白い光が壁を揺らし、ミユウの白い羽に淡い影を落とした。
「予言は、勇者殿が闇を晴らすと示しています」
「今の俺に、そんな力はない」
「今は、です」
「その『今は』って言葉、便利すぎませんか」
俺は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
胸の奥から込み上げたのは、情けなさだった。
俺は異世界に来れば何か変わると思っていたのかもしれない。自分でも認めたくないけど、心のどこかで期待していた。
勇者として召喚されたなら、剣を握れば強くなれる。魔法の一つくらい使える。誰かに必要とされる自分になれる。
そんな都合のいい夢が、測定の光と一緒に砕け散った。
現実は、もっと惨めだった。
俺を信じている少女がいる。
俺を勇者だと思っている神官がいる。
この世界には、本当に敵がいる。
なのに俺だけが、何も持っていない。
「龍夜くん」
ミユウが袖を引いた。
見下ろすと、ミユウは不安そうに俺を見ていた。大きな瞳の中に、俺の顔が小さく映っている。
「ごめんね。急に呼んじゃって。怖いよね。知らない場所で、知らない人ばっかりで、わけわかんないよね」
「……別に、怖いとは言ってない」
「でも、顔が怒ってる」
「怒ってるんじゃなくて、状況が意味わかんないだけだ」
「それ、怒ってる時の言い方だよ」
ミユウは小さく笑った。
その笑い方が、やけに胸に残った。
天真爛漫で、疑うことを知らないように見えるのに、この子は俺の表情をちゃんと見ている。俺が強がっていることにも、たぶん気づいている。
「でもね、わたしは信じてるよ」
「何を」
「龍夜くんは、きっと勇者になるって」
「根拠は予言書か?」
「それもあるけど」
ミユウは少しだけ背伸びをして、俺の顔を覗き込んだ。
「龍夜くん、さっき逃げなかったもん」
「逃げる場所がなかっただけだ」
「でも、わたしの手を振り払わなかった」
「……それは」
「だから、信じる理由にはなるよ」
そんな理由で信じるな。
喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
言えば、たぶんこの子は傷つく。
傷つけたいわけじゃない。
ただ、怖かった。
俺を信じる目が、怖い。
その信頼に応えられなかった時、真っ先に壊れるのは俺の自尊心じゃない。ミユウの笑顔だ。
そう思った瞬間、腹の底に鈍い熱が灯った。
情けない。
こんな小さな子にここまで言わせて、俺はまだ自分が傷つくことばかり考えている。
「勇者殿」
神官が静かに言った。
「今のあなたには、確かに力がありません。剣技も、魔力も、戦場の経験もない。だからこそ、当面はミユウ殿のそばを離れず、白翼の結界内で身を守っていただきます」
「……俺が、ミユウに守られるってことですか」
「率直に申せば、そうなります」
はっきり言われると、きつかった。
俺は息を吐いた。
情けなさが、胸の奥でぐちゃぐちゃに渦を巻く。
男だから守る側でいなきゃいけないとか、そんな単純な話じゃない。俺はこの世界のことを何も知らない。力もない。戦い方も知らない。
だから守られるのは、理屈としては正しい。
それでも、納得できるかどうかは別だった。
「龍夜くんは、わたしが守るよ」
ミユウが、迷いなく言った。
その言葉は優しかった。
だけど、俺の胸には刺さった。
守るよ。
俺が言うべきだったはずの言葉を、ミユウが先に言った。
白い羽を狙われる少女が、何も持たない俺を守ると言った。
俺は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛みだけが、今の俺に確かにあるものだった。
「……ずっとそのままでいるつもりはない」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
ミユウが目を丸くする。
神官も、わずかに眉を上げた。
「今は守られるしかないとしても、ずっとは嫌だ。何もできないまま、誰かの後ろに隠れてるなんて、俺は嫌だ」
言ってから、少しだけ息が楽になった。
力があるわけじゃない。
何か方法を思いついたわけでもない。
それでも、口に出さなきゃ自分が自分に負けそうだった。
ミユウは、嬉しそうに笑った。
「うん。龍夜くんなら、絶対そう言うと思ってた」
「だから、その信頼が重いんだよ」
「えへへ。勇者さまだもん」
「まだ勇者じゃない」
「じゃあ、これから勇者になる龍夜くん」
「言い方を変えただけだろ」
ミユウがくすくす笑う。
その笑い声に、張り詰めていた広間の空気が少しだけほどけた気がした。
けれど、それは長く続かなかった。
扉の向こうから、硬い足音が聞こえた。
こつ、こつ、と白い床を踏む音。
神官の表情が一瞬だけ曇る。ミユウの肩も、ぴくりと揺れた。
大きな扉が開く。
入ってきたのは、背の高い男だった。
長い白銀の髪が背中まで流れ、そこから広がる大きな翼は、ミユウのものよりも鋭く力強く見えた。整った顔立ちをしているのに、目つきが冷たい。
俺を見るなり、その男は露骨に鼻で笑った。
「こいつが予言の勇者?」
声には、隠す気のない軽蔑が混じっていた。
ミユウがぱっと俺の前に出ようとする。
「ルゥ!」
ルゥ。
ミユウの声に、親しさと焦りが混じっていた。
幼なじみなのだと、説明されなくてもわかった。距離が近い。ミユウが怒る前に名前を呼ぶ、その速さがそう告げていた。
ルゥはミユウに視線を向けると、少しだけ表情を和らげた。けれど俺に戻した途端、その目は氷みたいに冷たくなる。
「ミユウ、下がってろ。そいつに近づくな」
「龍夜くんは、予言の勇者さまだよ」
「勇者? その雑魚が?」
雑魚。
その二文字が、まっすぐ俺の胸に刺さった。
否定できないのが、余計に腹立たしかった。
ルゥはゆっくり歩いてきて、俺の足元から頭の先まで値踏みするように眺めた。
「魔力の気配もない。翼もない。剣を握った痕もない。戦う者の目でもない。こんな奴がアストリアの闇を晴らす? 笑わせるな」
「ルゥ、やめて!」
「やめない。ミユウ、お前は優しすぎる。予言に縋りすぎて、こんな偽物まで信じようとしてる」
ルゥの声には怒りがあった。
ただ俺を馬鹿にしているだけじゃない。
ミユウを取られたくないのか。
ミユウを危険に近づけたくないのか。
たぶん、その両方だ。
けれど、だからといって俺が黙って殴られっぱなしになる理由にはならない。
「おい」
俺はルゥを睨んだ。
「俺が弱いのは認める。ここに来たばっかりで、何もできないのも事実だ。でも偽物呼ばわりされる筋合いはない」
ルゥは楽しそうに口の端を上げた。
「事実を言われて怒るのか。情けない勇者だな」
「勇者じゃないって、さっきから言ってるだろ」
「なら何だ。ミユウに守られるだけの荷物か?」
広間の空気が凍った。
ミユウの顔から、笑みが消える。
神官が何かを言おうとした。
けれど、それより早く、ルゥがさらに踏み込んできた。
「白翼の継承者に守られて、予言の名だけをぶら下げて、何もできずに震えているだけ。そんな雑魚の偽物を、俺は勇者とは認めない」
頭の奥で、何かが切れた。
怖さも、情けなさも、悔しさも、全部まとめて腹の底で燃え上がる。
俺は一歩前に出た。
ミユウが俺の袖を掴もうとした手が、空を切る。
ルゥの冷たい目を、真正面から睨み返した。
「なんだと?!」
「ちょっと!帰れないってどういうことよ!」 美咲の声が石の壁に跳ね返り、俺たちの間へ戻ってきた。美咲はその響きにも驚いたように唇を閉じ、青白い光の消えた場所を見返した。踏み出しかけた足が止まる。そこにはもう何もなく、窓から差す明かりが床の石目を照らしていた。ついさっきまで帰り道の開くはずだった空間を、俺も目で探してしまう。 母さんの手が葵の肩に置かれた。父さんは床を見つめてからルゥへ顔を上げたが、その口が開くより先に、美咲が息を吸った。「映画のクランクアップだって明日なのよ!女子高生俳優、初めてランウェイを歩くって今すっごい注目されてるのに!」 言い終えた美咲の喉が、小さく上下した。いつもなら胸を張って話すことなのに、今は誰かに引き止めてもらいたいような声に聞こえた。指先が落ち着かずに擦れ合い、やがて片方の手でもう片方を握り込む。俺へ向けられた目が、すぐにルゥへ移った。 明日には帰れる。その前提が崩れるだけで、姉の声はこんなにも変わってしまう。祝ってもらったばかりの俺には、なおさら返す言葉が見つからなかった。ここへ来てよかったと思ったまま帰ってほしかったのに、今、その帰り道さえ渡してやれない。 隣から花の匂いがした。ミユウのドレスに残る婚礼の香りが、場違いなくらい優しかった。「明日の算数の小テストで平均点取ったら、タケルくんが告白してくれるのに!」 葵は母さんの手の下から身を乗り出していた。俺と目が合っても、いつものように照れて笑ったりしない。唇の端をきゅっと引き結び、返事を待っている。その真剣さに、喉まで出かかった曖昧な慰めが引っ込んだ。 葵にとっての明日は、ただ日付が変わることじゃない。教室へ行って、小テストを受けて、好きな相手の言葉を待つ一日だ。俺が何も言えずにいるうちに、葵の視線が下がった。母さんの手を探した指が、見つけるなり強く絡みつく。「わたしも、今日中には帰れると思ってたよ」 母さんは葵の指を包んだまま、美咲を見た。何か言おうと口を開き、結局、そのまま閉じる。その頬にもさっきまでの柔らかさはなかった。「葵ちゃん……大丈夫?」 ミユウが葵へ近づこうとして、傷をかばうように一度足を止めた。白い翼が背中でこわばり、ドレスの裾だけが遅れて揺れる。葵は顔を上げたが、うなずかなかった。代わりにミユウの手元へ目を落とし、母さんのそばへ少し寄
ミユウの唇から、息になりきらない声が漏れた。寝具を握る指が少しずつ丸まり、白い服の胸元に深いしわを寄せる。布団の脇に出た小さな翼は、何かを振り払おうとするように震えていた。 窓の向こうでは風が鳴っていた。昼間のぬくもりを失った石壁に囲まれ、寝台だけがひどく頼りなく見える。俺は制服の袖を引き上げ、ミユウの頬に張りついた銀白色の前髪をそっと撫でた。そばに立つルゥが、眩しくないよう燭台を遠ざける。 指が額に触れた瞬間、ミユウが飛び起きた。「葵!」 俺はすかさず抱きしめた。背中へ回しかけた腕をずらし、傷と翼を避けて体を支える。寝具の下にこもっていた熱が伝わってきたのに、俺の首筋へ触れた指先は冷たかった。「葵は隣の部屋で母さんと寝てる。大丈夫だ」 ミユウは戸口を見つめた。俺の声が届いていないのかと思った頃、制服をつかむ手に、いっそう力がこもった。「でも、さっきまで……手、つないでたのに。葵、ちゃんといる?」「ああ。朝になったら、一緒に会いに行こう」 彼女は唇を噛み、俺の胸へ額を押しつけた。無事だと何度言っても、夢の中で離れた手は、まだ彼女の中で見つからないのかもしれない。俺は続きを急がず、細い肩が上下するのを待った。胸の呪いが鈍く疼いたが、身じろぎして、この腕までほどけると思わせたくなかった。 小さなノックの後、父さんが入ってきた。寝台へ近づく足が途中で止まり、俺にしがみつくミユウへ目が留まる。ルゥに向けた声は低かった。「心的外傷後ストレス障害ではないか」「シンテキ?それは現代日本の呪文ですか?」 父さんは説明しかけるように口を開いた。しかし、ミユウの顔を見て唇を閉じ、視線を床へ落とした。「なんでもありません」 父さんまで言葉を選んでいる。そのことが、聞き慣れない言葉より胸に残った。俺はミユウの手を包み直した。指の力が少し緩んでも、廊下で物音がすると、また制服が引かれる。「お兄さん、寝ちゃっても、ここにいてね」 うなずくと、彼女はようやく目を閉じた。俺はその後も椅子へ戻らず、寝台の縁で体を支え続けた。腕の中の呼吸が深くなるまで、蝋燭の芯が焦げる匂いと、窓を鳴らす風だけが長い夜を少しずつ進めた。 翌朝、カーテンの裾に明るい線が差した。 隣室から葵の声が聞こえたとき、ミユウは俺より先に顔を上げた。扉のところに現れた葵を見つめ、差し出された手
昼間の白い服から着慣れた制服に戻り、袖口を整えると、肩の力が少し抜けた。回廊を染める夕日の中で、母さんと美咲が明日の婚礼に使う花をのぞき込んでいる。花瓶を置いた台の後ろには、壁を斜めに走る亀裂が残っていた。その前で聞き慣れた声が交わされることが、不思議で、離れがたかった。「ミユウ、城の外に綺麗なお花畑見つけた。遊びに行こうよ」 葵に手を取られ、ミユウが困ったように俺を振り返った。銀白色の髪の間からのぞく頬は緩み、背中の小さな翼が、行きたい気持ちを隠せないように浮いている。引かれるままに踏み出した足が白い服の裾を揺らすのを見て、俺も笑った。「俺もすぐ行くからな」 葵が花畑の方角を言い残す。二人の後を追おうとしたところで、父さんの声が背中に届いた。「龍夜。本当にここに残るんだな。勇者として生きることまで、引き受ける覚悟はあるのか」 父さんの目が一度だけ俺の胸元へ落ちた。答えを急かされないことが、かえって胸に重かった。回廊の向こうでは葵が何か言い、ミユウが声を立てて笑った。あの笑い声のそばで暮らしたい。そのために必要なことを、父さんに言われるまで考えていなかったわけじゃない。「ミユウと、ここで暮らしたい。守るために戦うことも、誰かに任せて逃げるつもりはない」 父さんは唇を結んだまま俺を見ていた。隣から伸びた母さんの手が袖に触れ、布越しに腕を包む。「無理はするんじゃない」 うなずいても、その手はすぐには離れなかった。美咲が俺の肩を軽く叩き、いつもの調子を探すように口元を上げる。「葵をよろしくね。あんたも、ちゃんと戻っておいでよ」 ルゥと回廊を曲がると、家族の声が遠くなった。袖の温かさだけが取り残されたようで、腕を下ろすのをためらう。振り返ればまた足が止まりそうだったから、先に行った二人の笑い声を思い出して歩幅を広げた。 城門の外では、夕風が頬に冷たかった。右手へ続く道をたどると、花の茂みの前で細い道が分かれている。白いものが見えて近づいても、薄明かりに浮かぶ花の房だった。城壁の影が長く伸び、行き先を教えた葵の声ばかりが、妙にはっきり耳に残る。「葵、ミユウ。どこだ?」 返事を待つ間、茂みをこする風の音が大きくなった。こんなに呼んで聞こえないほど遠くへ行ったのか。ルゥと顔を見合わせ、奥の小道へ踏み出しかけたときだった。「にいちゃーーん!!」
「どうした?!ミユウ!」 肩へ添えた手に、細かな震えが伝わった。黒い服の襟元には銀白色の髪が貼りつき、小さな白い翼が寝具を押している。息を吸おうと開かれた唇からは、掠れた音しか出てこない。目の前にいる俺を通り過ぎて、その視線は部屋の暗がりを探していた。 何を見たのか。どこか痛むのか。尋ねたいことが喉につかえたが、ミユウの口元がまた震えるのを見て、言葉を飲み込んだ。高い天井の聖紋も、月明かりを透かす白い垂れ布も、今は彼女を安心させてくれない。俺は顔を近づけ、視線が戻ってくるのを待った。「お兄さん、いる?」「いる、ずっと」 制服の袖を探っていた指が、俺の手を掴んだ。爪の先が食い込む。その痛みを受け止めていると、強張った指がわずかにほどけ、今度は小指だけを握り直した。手首に細い吐息がかかる。肩の震えは残っていたが、俺の顔を見つけた目が、ようやくそこに留まった。 大丈夫だと、何度でも言ってやりたかった。けれど、その言葉のあとでまた息を詰めたら、俺はどうすればいい。慰め方を探すほど、自分の声で彼女の苦しさを覆ってしまいそうで、繋いだ手に少し力を返すことしかできなかった。 寝台の縁から下ろした足に、石床の冷たさが沁みてくる。毛布を引き寄せるための片手さえ、今は惜しかった。ミユウが目を閉じても、指はときおり俺を確かめた。そのたびに握り返し、腕の置き方を変えながら、垂れ布の向こうが明るむまでそばにいた。 翌朝の小食堂には、焼けたパンと温かなスープの匂いが満ちていた。母さんが皿を寄せ、美咲が葵の口元についたパン屑を指摘する。石の壁に響く家族の声を聞いていると、夜の暗がりがようやく背中から離れていく気がした。「ミユウ、このジャムおいしいよ。昨日のクッキーにも合いそう」 葵が差し出した小皿の前で、ミユウのスプーンが止まっていた。呼ばれたことに気づくまで、少し間がある。「……うん。あとで、食べたい」 笑おうとした口元が、すぐに下がった。昨日は焼き上がったクッキーを自分から差し出していたのに、今朝は隣の葵へ何か言いかけても、膝へ目を落としてしまう。向かいの父さんも、そのたびにパンをちぎる手を止めていた。 食事のあと、父さんに呼ばれ、俺とルゥは窓辺へ寄った。夜中の様子を伝えると、ルゥは食卓に残るミユウを見て、声を落とした。「ミユウは九百年にわたり、ひとりで人々を助け
「おぉ、これは。勇者さまのご家族、ようこそいらっしゃいました」 母さんの相槌に、葵の声が重なる。修理の槌音にも負けない声で、妹は結界の光を見上げた。「ここって異世界ってやつだよね?あの漫画の!」 その目が俺の隣で止まり、銀白色の髪から覗く小さな白い翼へ移る。「妖精?!本物!」「天使だよ。それから……俺の婚約者の、ミユウ」 言った途端、家族の顔を見づらくなった。けれど、俺までうろたえてどうする。黒い服の裾を握るミユウのそばへ寄ると、彼女は俺を見上げてから、家族へ向き直った。「お兄さんに、いつも助けてもらってて……だから、ご家族にも会いたかったの。お兄さんと会えてよかったって、お礼を言いたくて」 母さんが返事をしかけた横から、葵が顔を出す。「ねえ、一緒に遊ぼうよ。何するのが好き?」「クッキー、作りたいけど……わたし、焦がしちゃうから」 同じ高さにある顔を見つめるミユウの手を、葵が取った。「失敗しないクッキーの作り方、教えてあげるよ」 神官に台所の方角を教わるなり、葵は歩きだした。ミユウが困ったように俺を振り返る。「あ、ちょっと」「あ、こら、キッチンまた焦がすなよ」「ベーっ」 二人を追おうとした俺の袖を、母さんがつまんだ。「家の鍵かけたかしら」 「火消してきたかしら」 空いた手でポケットを探っている。外出の途中で何度も聞いた声だった。石の柱の下で聞くには妙なのに、袖を引く指の力までいつもどおりで、俺はようやく母さんの顔を落ち着いて見られた。 美咲は柱の裏を覗き、天井の奥へ目を細めている。「映画のセットにしては本格的ね」 撮影現場を見る顔から、俺に目を戻した途端、眉が寄った。「その金髪、学校に何て言うつもり?」「俺が染めたんじゃないって」 神官たちの前で髪の小言を食らうとは思わなかった。勇者と呼ばれていても、姉に襟を直されるのを避けきれない。 父さんだけは壁の継ぎ目や窓の外を静かに見ていた。「我々は今まで、日本の実家で食事をしながら野球中継を見ていたはずだ。ここは現代日本じゃないことはわかる。」 俺が台所の方をうかがって顔を戻すと、父さんと目が合った。ミユウを紹介したときにも感じた視線に、背筋が伸びる。俺は傍らのルゥを、ここへ呼んでくれた相手だと紹介した。「うちの馬鹿息子が大層ご迷惑をかけたようですね」 ルゥは少
「おぉ、勇者さま!」 神殿へ戻った俺たちの前に、白い衣が駆け寄ってきた。靴底を通して伝わる石床の硬さに、ようやく足を止める。ルゥの祈りがまだ胸に残っていて、ミユウと交わす次の言葉を探していたところだった。 一人の声に、奥の神官たちも顔を上げた。欠けた柱の間から次々に人が現れ、足音が高い天井に反響する。見覚えのある広間には壁の崩れた跡が残り、窓から差す光の中を細かな埃が漂っていた。「勇者さま!」 「救世主さま!」 差し出される手に応じるだけで精いっぱいだった。衣の袖口は汚れ、爪の間に土が入り込んでいる。そんな手で俺を迎え、ほっとした顔をされると、何を返せばいいのかわからなくなる。「俺はそんな大層なことしてない」「おぉ、人間界の勇者さまは大層ご謙遜でいらっしゃる」 首の後ろがむずむずした。否定しても、また褒められそうだ。 そのとき、学校の制服の袖がわずかに引かれた。ミユウが隣から神官たちを見上げている。銀白色の髪が頬にかかり、黒い服の背で小さな白い翼が縮こまっていた。 俺に集まる声の中で、彼女が口を開きかけ、閉じた。 ここにいる人たちの無事を、きっと誰より喜びたいはずだ。それなのに、自分の立つ場所を探すような仕草をさせたまま、俺だけが礼を受け取っていたくなかった。「ミユウ一人に任せず、みんなのできることを分けてほしい。ここの守りも、修理も」 神官は俺の顔を見て、静かにうなずいた。軽い返事をしなかったことに、少し肩の力が抜ける。彼はミユウへ向き直ると、衣の裾が床につくのも構わず膝を折った。「ミユウ殿、我々は少し、あなたに甘えすぎていました。勇者さまのお考えの通り、強く拒否されるからと言って何もしないのではありません」 低い声が、最後にかすれた。神官は膝に置いた自分の手へ一度目を落とし、それからミユウを見つめ直した。 袖を握る指に力がこもった。隣を見ると、彼女の唇が震えていた。答えようと吸った息が喉でつかえ、頬を涙が伝っていく。「神官さま。でも わたし」 神官はその先を急かさなかった。ミユウが息を継ぐのを待ってから、入口へ掌を向ける。 壊れた石飾りの向こうに、淡い光が見えた。薄い幕を幾重にも重ねたような輝きが、入口から外壁に沿って続いている。崩れた部分を塞ぐその光を、ミユウも瞬きを忘れたように見ていた。「この神殿に、最も魔力の強い者
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で







