تسجيل الدخول「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」
俺の声は、自分で思ったより低く響いた。
白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。
ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。
それでも、一つだけ引っかかっていた。
目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。
俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。
瀬野龍夜。
俺が名乗る前に。
その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気味が悪かった。
ミユウは、ぱちぱちと目を瞬かせたあと、なぜか嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
「えへへ。だって、古い予言書に載っていたんだよ」
「予言書?」
「うん! 異国の服を着て、龍の背に乗って夜の闇を切り払い、アストリアの闇を晴らす人が現れるって」
ミユウはそこで、俺をまっすぐ見上げた。
澄みきった瞳だった。
疑うことを知らない子供みたいな目。だけど、その奥には子供の憧れだけじゃない、長い間ずっと誰かを待っていたような熱があった。
「だから、龍夜くんよ」
「いや、だからって……」
俺はこめかみを押さえた。
待て。
龍の背に乗って、夜の闇を切り払う。
それで龍夜。
そんな雑な名付けクイズみたいな理由で、俺は異世界に引っ張られてきたのか。
「お前、それ本気で言ってるのか?」
「もちろんだよ!」
「予言書に『龍夜』ってそのまま書いてあったわけじゃないのか?」
「えっとね、文字はもっと難しかったけど、神官さまたちがたくさん調べてくれてね。龍と夜で、龍夜くんだって」
「翻訳の結果が俺の人生を巻き込んでるんだが」
俺が思わず呟くと、ミユウは申し訳なさそうに眉を下げた。けれどすぐに、ぱっと花が開くように笑った。
「でも、来てくれた。ちゃんと来てくれたもん」
その言い方に、胸の奥が少しだけ詰まった。
責めるつもりだった。
ふざけるなと言うつもりだった。
勝手に呼び出して、勝手に勇者扱いして、しかも俺には戦闘力もスキルもない。さっき測られた数値は、きれいに何もなかった。
なのにミユウは、俺を見ている。
俺が何もできないことなんて、まだ知らないみたいに。
いや、知っていたとしても関係ないみたいに。
「ミユウ殿」
低く落ち着いた声が、広間の端から聞こえた。
振り返ると、白い長衣をまとった神官が静かに歩み寄ってきた。年齢はよくわからない。しわの深い顔なのに、背筋だけはまっすぐで、こちらを見る目は妙に鋭かった。
神官は俺の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「勇者殿。混乱なさるのも無理はありません」
「混乱で済んでるなら、俺はかなり冷静な方だと思いますけど」
「ええ。ですから、今のうちにお伝えしておかねばならないことがあります」
神官の声が、少し重くなった。
ミユウが俺の袖をきゅっと掴む。
その指先が、わずかに震えていた。
「ミユウ殿の白翼は、ただ美しいだけの翼ではありません。白翼の継承者にのみ宿る、癒しの力を持っています」
「癒しの力……?」
「はい。傷を塞ぎ、毒を鎮め、弱った命をつなぎ止める力です。天界アストリアにおいて、白翼は希望そのもの。人々はミユウ殿を敬い、守ろうとします」
そこで神官は、言葉を切った。
守ろうとする。
その響きは、きれいなものだけじゃなかった。
守らなければならないほど、狙われているという意味でもある。
「しかし、その力を求めるのは人だけではありません」
神官はゆっくりと続けた。
「悪魔族もまた、ミユウ殿の力を狙っています。彼らにとって白翼の癒しは、戦を長引かせるための道具にもなり得る。奪われれば、アストリアはさらに深い闇へ沈むでしょう」
ミユウの指に、力がこもった。
さっきまで予言書の話をしていた少女とは、違う顔になっていた。笑っているのに、笑いきれていない。怖がっていないふりをしているのが、はっきりわかった。
俺は自分の胸の奥がざらつくのを感じた。
この子は、特別視されている。
ありがたがられて、崇められて、希望なんて言葉を背負わされている。
でも、それは同時に、狙われる理由でもある。
俺より一回りは小さい女の子が。
白い翼を持っているというだけで。
「……じゃあ、俺は」
喉が渇いていた。
勇者として呼ばれた。
アストリアを救う者だと持ち上げられた。
だけど実際は、スキルなし。戦闘力なし。剣の振り方も知らない。
そして今、隣にいるミユウは、この世界の誰もが守りたがる存在で、悪魔族に狙われている。
俺は、守る側じゃない。
今の俺は、守られる側だ。
その事実が、胸の真ん中に冷たい石みたいに落ちた。
「俺を呼んだのは、ミユウを守らせるためじゃないのか」
俺がそう言うと、神官はすぐには答えなかった。
沈黙が、広間に広がる。
青白い光が壁を揺らし、ミユウの白い羽に淡い影を落とした。
「予言は、勇者殿が闇を晴らすと示しています」
「今の俺に、そんな力はない」
「今は、です」
「その『今は』って言葉、便利すぎませんか」
俺は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
胸の奥から込み上げたのは、情けなさだった。
俺は異世界に来れば何か変わると思っていたのかもしれない。自分でも認めたくないけど、心のどこかで期待していた。
勇者として召喚されたなら、剣を握れば強くなれる。魔法の一つくらい使える。誰かに必要とされる自分になれる。
そんな都合のいい夢が、測定の光と一緒に砕け散った。
現実は、もっと惨めだった。
俺を信じている少女がいる。
俺を勇者だと思っている神官がいる。
この世界には、本当に敵がいる。
なのに俺だけが、何も持っていない。
「龍夜くん」
ミユウが袖を引いた。
見下ろすと、ミユウは不安そうに俺を見ていた。大きな瞳の中に、俺の顔が小さく映っている。
「ごめんね。急に呼んじゃって。怖いよね。知らない場所で、知らない人ばっかりで、わけわかんないよね」
「……別に、怖いとは言ってない」
「でも、顔が怒ってる」
「怒ってるんじゃなくて、状況が意味わかんないだけだ」
「それ、怒ってる時の言い方だよ」
ミユウは小さく笑った。
その笑い方が、やけに胸に残った。
天真爛漫で、疑うことを知らないように見えるのに、この子は俺の表情をちゃんと見ている。俺が強がっていることにも、たぶん気づいている。
「でもね、わたしは信じてるよ」
「何を」
「龍夜くんは、きっと勇者になるって」
「根拠は予言書か?」
「それもあるけど」
ミユウは少しだけ背伸びをして、俺の顔を覗き込んだ。
「龍夜くん、さっき逃げなかったもん」
「逃げる場所がなかっただけだ」
「でも、わたしの手を振り払わなかった」
「……それは」
「だから、信じる理由にはなるよ」
そんな理由で信じるな。
喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
言えば、たぶんこの子は傷つく。
傷つけたいわけじゃない。
ただ、怖かった。
俺を信じる目が、怖い。
その信頼に応えられなかった時、真っ先に壊れるのは俺の自尊心じゃない。ミユウの笑顔だ。
そう思った瞬間、腹の底に鈍い熱が灯った。
情けない。
こんな小さな子にここまで言わせて、俺はまだ自分が傷つくことばかり考えている。
「勇者殿」
神官が静かに言った。
「今のあなたには、確かに力がありません。剣技も、魔力も、戦場の経験もない。だからこそ、当面はミユウ殿のそばを離れず、白翼の結界内で身を守っていただきます」
「……俺が、ミユウに守られるってことですか」
「率直に申せば、そうなります」
はっきり言われると、きつかった。
俺は息を吐いた。
情けなさが、胸の奥でぐちゃぐちゃに渦を巻く。
男だから守る側でいなきゃいけないとか、そんな単純な話じゃない。俺はこの世界のことを何も知らない。力もない。戦い方も知らない。
だから守られるのは、理屈としては正しい。
それでも、納得できるかどうかは別だった。
「龍夜くんは、わたしが守るよ」
ミユウが、迷いなく言った。
その言葉は優しかった。
だけど、俺の胸には刺さった。
守るよ。
俺が言うべきだったはずの言葉を、ミユウが先に言った。
白い羽を狙われる少女が、何も持たない俺を守ると言った。
俺は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛みだけが、今の俺に確かにあるものだった。
「……ずっとそのままでいるつもりはない」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
ミユウが目を丸くする。
神官も、わずかに眉を上げた。
「今は守られるしかないとしても、ずっとは嫌だ。何もできないまま、誰かの後ろに隠れてるなんて、俺は嫌だ」
言ってから、少しだけ息が楽になった。
力があるわけじゃない。
何か方法を思いついたわけでもない。
それでも、口に出さなきゃ自分が自分に負けそうだった。
ミユウは、嬉しそうに笑った。
「うん。龍夜くんなら、絶対そう言うと思ってた」
「だから、その信頼が重いんだよ」
「えへへ。勇者さまだもん」
「まだ勇者じゃない」
「じゃあ、これから勇者になる龍夜くん」
「言い方を変えただけだろ」
ミユウがくすくす笑う。
その笑い声に、張り詰めていた広間の空気が少しだけほどけた気がした。
けれど、それは長く続かなかった。
扉の向こうから、硬い足音が聞こえた。
こつ、こつ、と白い床を踏む音。
神官の表情が一瞬だけ曇る。ミユウの肩も、ぴくりと揺れた。
大きな扉が開く。
入ってきたのは、背の高い男だった。
長い白銀の髪が背中まで流れ、そこから広がる大きな翼は、ミユウのものよりも鋭く力強く見えた。整った顔立ちをしているのに、目つきが冷たい。
俺を見るなり、その男は露骨に鼻で笑った。
「こいつが予言の勇者?」
声には、隠す気のない軽蔑が混じっていた。
ミユウがぱっと俺の前に出ようとする。
「ルゥ!」
ルゥ。
ミユウの声に、親しさと焦りが混じっていた。
幼なじみなのだと、説明されなくてもわかった。距離が近い。ミユウが怒る前に名前を呼ぶ、その速さがそう告げていた。
ルゥはミユウに視線を向けると、少しだけ表情を和らげた。けれど俺に戻した途端、その目は氷みたいに冷たくなる。
「ミユウ、下がってろ。そいつに近づくな」
「龍夜くんは、予言の勇者さまだよ」
「勇者? その雑魚が?」
雑魚。
その二文字が、まっすぐ俺の胸に刺さった。
否定できないのが、余計に腹立たしかった。
ルゥはゆっくり歩いてきて、俺の足元から頭の先まで値踏みするように眺めた。
「魔力の気配もない。翼もない。剣を握った痕もない。戦う者の目でもない。こんな奴がアストリアの闇を晴らす? 笑わせるな」
「ルゥ、やめて!」
「やめない。ミユウ、お前は優しすぎる。予言に縋りすぎて、こんな偽物まで信じようとしてる」
ルゥの声には怒りがあった。
ただ俺を馬鹿にしているだけじゃない。
ミユウを取られたくないのか。
ミユウを危険に近づけたくないのか。
たぶん、その両方だ。
けれど、だからといって俺が黙って殴られっぱなしになる理由にはならない。
「おい」
俺はルゥを睨んだ。
「俺が弱いのは認める。ここに来たばっかりで、何もできないのも事実だ。でも偽物呼ばわりされる筋合いはない」
ルゥは楽しそうに口の端を上げた。
「事実を言われて怒るのか。情けない勇者だな」
「勇者じゃないって、さっきから言ってるだろ」
「なら何だ。ミユウに守られるだけの荷物か?」
広間の空気が凍った。
ミユウの顔から、笑みが消える。
神官が何かを言おうとした。
けれど、それより早く、ルゥがさらに踏み込んできた。
「白翼の継承者に守られて、予言の名だけをぶら下げて、何もできずに震えているだけ。そんな雑魚の偽物を、俺は勇者とは認めない」
頭の奥で、何かが切れた。
怖さも、情けなさも、悔しさも、全部まとめて腹の底で燃え上がる。
俺は一歩前に出た。
ミユウが俺の袖を掴もうとした手が、空を切る。
ルゥの冷たい目を、真正面から睨み返した。
「なんだと?!」
ザクリ、と鈍い音がした。 俺の剣は、小型悪魔の肩をかすめただけだった。 次の瞬間、黒い影が地面を蹴る。 低く、速い。 俺が剣を戻すより早く、腹に衝撃がめり込んだ。「ぐっ……!」 息が詰まった。 足が浮く。 背中から神殿の裏庭の石畳に叩きつけられ、肺の中の空気が全部逃げていく。 視界が白く弾けた。 それでも、握っていた剣だけは離さなかった。 小型悪魔は、俺より頭一つ分小さい。 なのに、速さも力も桁が違う。 黒い皮膚。 ぎょろりとした赤い目。 裂けた口。 訓練用だとルゥは言った。 けれど、俺には十分すぎるほど化け物だった。「立て」 ルゥの声が飛んだ。 神殿の裏庭には、朝の光が差している。 白い柱。 蔦の絡んだ壁。 噴水の涼しい音。 平和そうな景色の中で、俺だけが泥と汗にまみれていた。「言われなくても……立つ」 膝が笑っていた。 腕も震えていた。 それでも俺は、剣を杖みたいにして立ち上がった。 小型悪魔が、喉の奥で笑うような音を立てる。 馬鹿にされている。 たぶん実際、馬鹿にされている。 魔力ゼロの高校生が、勇者服だけ着せられて、剣を振っている。 向こうからすれば、これ以上ない見世物だ。 けれど、俺はもう決めていた。 逃げない。 ミユウを守ると決めた。 だったら、今ここで膝をついている暇なんてない。「もう一回だ」 俺は剣を構え直した。 ルゥの金色の目が、わずかに細くなる。「雑魚のくせに、口だけは一人前ですね」「雑魚だからやるんだよ」 俺は荒い息のまま笑った。「強いやつが努力したって普通だろ。弱い俺がやるから、意味がある」 小型悪魔が跳んだ。 今度は正面じゃない。 左。 そう思った瞬間、影が右へ流れた。「くそっ!」 俺は反射で剣を振る。 空を切った。 脇腹に爪が当たる。 浅い。 けれど、熱い痛みが走った。 勇者服の布が裂れ、血が滲む。 それでも、俺は下がらなかった。 逃げるためじゃない。 捕まえるために、一歩踏み込んだ。「おおおっ!」 左手で、小型悪魔の腕を掴む。 爪が掌に食い込んだ。 痛い。 でも、離さない。 右手の剣を短く持ち替え、全体重を乗せて突き出す。 刃先が、小型悪魔の胸元をかすめた。 黒い影が、初めて後ろへ跳んだ。 ほんの少し。
「……あの人が」 かすれた声が、夜の部屋に落ちた。 アストリアの神殿の奥。ミユウに与えられた部屋は、白い石壁に囲まれていて、窓から差し込む月明かりだけが、薄く床を照らしていた。 昼間はあれだけ人の声であふれていた神殿が、今は嘘みたいに静まり返っている。 その静けさの中で、ミユウは眠っていた。 いや、眠っているはずだった。 白い羽は力なくシーツに広がり、細い指は胸元で何かをつかもうとするように震えている。額には汗が浮かび、唇だけが何度も同じ言葉を繰り返していた。 「……あの人が。……あの人が」 俺は椅子を蹴るように立ち上がった。 「ミユウ」 返事はない。 「ミユウ、起きろ」 声をかけても、まぶたは開かない。代わりに、ミユウは苦しそうに眉を寄せ、首を横に振った。 「いや……来ないで……」 胸の奥が冷えた。 昼間、ミユウは倒れるまで人を癒した。 止めても笑っていた。まだ大丈夫だと、いつもの明るい声で言った。 大丈夫なわけがなかった。 こんなに細い体で、こんなに力なく眠って、夢の中でまで誰かに怯えている。 俺はベッドの横に膝をつき、ミユウの手を握った。 驚くほど冷たかった。 「ミユウ!」 自分でも驚くくらい大きな声が出た。 その瞬間、ミユウの瞳が開いた。 「っ……!」 白い羽が跳ねる。ミユウは何かから逃げるように上半身を起こし、そのままベッドの端へ傾いた。 「危ない!」 俺は考えるより先に腕を伸ばした。 倒れ込んできた体を抱き止める。 軽い。 あまりにも軽かった。 腕の中のミユウは、今にも消えてしまいそうだった。薄い雪を抱いているみたいに、強く触れたら壊れそうで、離したら二度と戻ってこない気がした。 「龍夜……くん……?」 「俺だ」 「ここ……どこ……? あの人は……」 またその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に火がついた。 怒りじゃない。 たぶん、悔しさだった。 俺はミユウの肩を支え、逃げるように揺れる顔を自分のほうへ向けた。 「悪夢でも、ラフィセルでもなく、俺を見ろ」 ミユウの瞳が揺れた。 「俺はここにいる。お前の目の前にいる。だから、今はそいつを見るな」 「でも……」 「でもじゃない」 俺はミユウの額に、そっと口付けを落とした。 ほんの一瞬だった。 泣きそうな子どもを現実に引き戻すみた
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!」「いや、逃げたかったけどな」「でも逃げなかったもん!」 ミユウは、まるで自分のことみたいに笑っていた。 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。 俺は強くない。 魔力もない。 剣だって、まだまともに振れない。 でも、ミユウはそんな俺を見て、まっすぐに笑う。「龍夜くんは、絶対強くなるよ」「……なんでそんなに言い切れるんだよ」「だって、諦めない人だから」 何気ない言葉だった。 でも、俺にはそれが、どんな魔法よりも強く響いた。 誰かに信じてもらうことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。「雑魚スライム一匹で感動するな。見てるこっちがむず痒い」 石柱にもたれたルゥが、鼻で笑った。「うるさいな。勝ちは勝ちだろ」「ほう。言い返す元気は残ってるのか」 ルゥは俺の足元から剣先までを見て、小さく息を吐いた。「まあ、逃げなかったことだけは認めてやる」「それ、褒めてるのか?」「勘違いすんな。底辺が少し地面から顔を上げただけだ」 相変わらず腹の立つ言い方だった。 けれど、不思議と嫌ではなかった。 たぶん、今の俺は少しだけ浮かれていた。 初めて、自分にも何かできるかもしれないと思えたから。 その時だった。 神殿の表側から、ざわめきが聞こえた。 歓声じゃない。 祈りでもない。 泣き声。 叫び声。 助けを求める声。 ミユウの笑顔が消えた。「行かなきゃ」「待て、ミユウ」 俺が止めるより早く、彼女は走り出していた。 神殿の大広間は、人であふれていた。 老人を背負った男。 熱にうなされる子どもを抱いた母親。 顔
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で、ルゥが俺を見ている。 長い金髪。背に広がる白い羽。 天使族の長。その姿は、ただ立っているだけで空気を支配していた。「まだ挑むのか」 ルゥが静かに言った。 冷たい声だった。けれど、雑ではない。 試している。測っている。 俺が本当にミユウのそばに立つ資格があるのかを。「挑むんじゃない」 俺は剣を握る手に力を込めた。「勝つんだ」 ルゥの瞳が、わずかに細くなる。「魔力もない。技も未熟。戦い方も知らない。それで何を根拠に勝つと言う」「根拠ならある」「何だ」「俺が、もう逃げないって決めた」 言った瞬間、自分の中で何かが定まった。 俺は勇者じゃない。 まだ救世主なんて呼ばれるような人間でもない。 けれど、ミユウを守りたいと思った。 あの白い羽の少女を、もう一人で泣かせたくないと思った。 それだけは、誰かに与えられた役目じゃない。 俺自身が選んだ理由だ。「口でなら何とでも言える」 ルゥが片手を上げた。 空気が張り詰める。 芝の上に淡い光が落ち、青白いスライムが跳ねた。 その瞬間、体がぐにゃりと歪む。 一体だったはずの姿が、二つ、三つ、五つに分かれた。 俺を囲むように、同じ姿のスライムが跳ね回る。 右。左。正面。背後。 さっきの俺なら、全部を目で追おうとして、全部に騙された。 でも、もう同じ失敗はしない。 俺は剣先をわずかに下げた。 焦るな。 目だけに頼るな。 魔力がないなら、感じればいい。 読むんだ。奴の動きを。 芝が沈む音。 空気を押す気配。 跳ねる直前の、ほんのわずかな間。 偽物は軽い。 本物だけが、地面
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。 ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。 その手を振りほどけなかった。 気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。 だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」 涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。 白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。 綺麗な部屋だった。 なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。「ミユウ」 俺は名前を呼んだ。 届かない。 ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。 昼間のミユウは、いつも笑っていた。 天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。 でも今のミユウは違う。 笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」「こないでっ!」 伸ばした手を、ミユウが払いのけた。 次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。 頬に鋭い痛みが走る。 叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。 でも、腹は立たなかった。 ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。「い
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。 けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。 もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。 もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。 でも、現実のミユウは違う。 白翼の継承者。 特別な癒しの力を持つ少女。 その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。 あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。「事実を言っただけだ」 ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。 銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」 胸の奥に、鈍い音がした。 雑魚。 偽物。 たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。 学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」 やっと出た声は、思ったより低かった。 ルゥの眉が少しだけ動く。「へえ。口だけは救世主っぽいな」「口だけで終わらせるつもりはない」「なら、見せてみろ」 ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。 神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。 少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気が
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ







